JILIS第2回情報法セミナーを聴講して思ったこと(同意の哲学的含意を中心に)

 

 

台風一過で死ぬほど暑かったけどデータ資本主義とかそういう話のざっくりとした前提を知ってるかな位の俺が話を聞いてきたのでそれを聞いて思ったことを書く。なお、この雑文を書いてる人は普段はカントとかを読んでいる人(哲学研究者)で、情報法制については門外漢もいいところ。当然、誤認が多々あると思うのでコメント頂ければ有難い。

 

 

リクナビの事件性については既に各報道でみなさん見聞の通り。

①学生の閲覧したページのクッキーを取得。

②履歴書の情報と突き合わせて本人を特定。

③この本人情報を、前年までの応募者のデータから機械学習させたAIに飲ませて「辞退率」を推定、その推定値を応募先の企業に売っていた。クソすぎる…。

④特定は2種類のパターンがあって、本人の同意があった場合と、無かった(※ミスと主張)場合がある。いずれにしても(例え同意があろうと)ダメなんではないか。

 

この問題というのはもちろんまずは一企業の一連のダメな行動なのだけれども、しかし同時にこれまでの日本的な常識の(”ドブ川の如き反社会的な実態”――鈴木氏)限界をいろんな意味で露呈した良いモデルケースと思っている。法・道徳(エートス)も商習慣や雇用文化のような慣例(エトス)も巻き込んでしまっているだけでなく、これからの日本にも影響があると。ここで規制を打たないなら人権的に極めて問題がある一方、変な規制を打つと、本来グローバル企業を取り締まるための法が日本企業を狙い撃ちする格好になり、たくさんお金と頭脳を持っているグローバル企業はむしろそこを通過して、日本人の情報を海外でどんどん活用してしまうといういわば逆噴射を招く可能性がある、というわけ(イコールフッティングとして会場でも問題視された)。笑えねー。

この背後には、情報を扱っている企業の持つ高い倫理性そのものが一つの経済になってきているという事態がある。そういう点では山本一郎氏の言うように、確かに今求められているのは、単なる総論以上の統一的視座ないしは哲学に他ならないと言える。個人情報の取り扱いは、経済も省庁も法規も倫理も習慣もひっくるめて公論、世論のいわば「メタ」な領域(「世界観」とか「原理」のレベル)で焦点になっているからだ。

 

同意原則を掘り下げると民主主義の根幹に行き着く

機械学習の効果如何とか、法解釈、関係省庁の見解あるいは個人情報というものについてのそもそもの理解が一般に及んでいないことなどについては、他にもいろんな人が書いているのでそちらをどうぞ。ここでは、今回論点となったことの一つに、同意原則というのがあって、これがどういう広がりを持っているのか、考えると非常に大きな問題なのではないかということを、書いておきたい。

自分の提供した情報がどう使われるのかについて、本人の同意というのが求められるというのは、もうほとんどどこでも普通にやっていることだ。リクナビの場合も、「本人の同意があった」とされている件については、問題視されない可能性があるという(事態は流動的ですが)。もちろん、よく考えれば、自分の履歴書とウェブでの閲覧履歴を照合して個人を特定して内定辞退率を企業に売るなどというとんでもない計画に学生が同意するはずはないし、同意の範囲に含まれているときちんと確認してるのかも不明なのだが、形式的にせよ同意があるということが、一つの常套論法となっていると言ってよい。

では、本人の同意とは何だろう? この問いに論点先取することなく答えるのは難しい。それは、単なる技術的な問いでもなければ、それぞれの法体系における定義の問題だけでもなくて、明らかにちょっと哲学的だ。しかしいずれにせよ、本人の同意という概念の含意する歴史的文脈と、その現在の使用の実態はすでに大きく離れてしまっている。つまり、かつて我々が直面していた思想上の仮想敵とは、本人の同意のない入院とか、障害者やハンセン病患者への同意のない断種とか、参政権を持たない黒人の差別とか、そういったものだった。ヨーロッパと北米は、そういう敵=社会的不正との対峙から同意原則を勝ち取ってきた歴史がある。これこそが、民主主義の歴史、という物だ。かつてプラトンソクラテスが「相手の為を思って」いる羊飼いの例を持ち出した時(『国家』)、それは良い統治者の例であった。しかし、いくら「相手の為を思って」いたとしても、羊からの積極的な同意がないなら、そういうサービスはすべきでない、というのがここでの考え方だ。絶対王政のあとのプロイセンの王さまが、「朕は国家第一の下僕」といって、国民の福祉にどんどん介入する場合、そういう家父長的な支配のあり方に抵抗できる旗印も、この本人の同意という概念だ。

でも、今の同意原則の置かれている文脈はそれではない(あるいは、敵はそれよりもっと巧妙なものになっている)。福祉国家はもはや敵どころか、多国籍企業の猛攻から国民の自由や生命や幸福を保障する最後の頼みの綱かもしれない。ここらへんの記述はもうおなじみのものだろう。いずれにしても、思想信条上の敵といえば国家権力だと相場が決まっていた時代とは、かなり変わっているのだ。

 

同意することによって何をしたことになるのか

議論を戻すと、我々の多くはプライバシーポリシーを読まないか、読んでも多くを理解できないか、誤解するが(これは心理学や認知科学が示してきた通り)、しかしクリックをすることはでき、読んだと思っており、理解したと思っている。「と思っている」とは、しかし、ただ思っているというのではない。クリックしたその時、あなたは確かに世界の誰かの何かにその瞬間から同意している「ことになる」。そこには、そういう世界に対する一定の「関与性」があるのだ。それだけでなく、たとえダメなプライバシーポリシーであっても、同意しないとサービスが受けられないとなったら、結局同意「せざるを得ない」ような気もしてくる。さらに、この手のサービスの多くは“無料”となっており、同意の持つ経済的な価値は一見非常に軽く「見える」ので、同意したところで、無料で得られたものが何がどういうことになるかをいちいち考えるのは面倒である。こうしたサービスは毎日吸ったり吐いたりする空気のようなものだ。

ここでの、「ことになる」とか「せざるを得ない」とか「見える」といった言いまわしの積み重ねが、19世紀的な同意と現代の同意の文脈の違いだ。「同意の有無」は、あるとないとで世界の有様に大きく影響するにも関わらず、例えば自然科学的事実認定のようなものをそこに求めようとすると、なかなか難しい。

そして、そうした認識論的な問題もあって、サービス提供者・企業側は、こうした言い回しの微妙なニュアンスを独善的に理解する傾向がある。つまり悪しき企業は、このようなユーザーの置かれている状況を分かっていても、読まない人はバカな人、時間がなくて読まない人、色々な意味で貧困な人なので、それでものすごく本人が傷ついたとしても(といっても適法であるかぎりは)、それはこちらの責任ではなく、何も救済しなくてもいいよね、と言ったり行ってくるかもしれない。

 

形式的本人同意は民主主義のハッキング

つまり、こういうクソ企業が、今の「敵」なんだと思う。そして、これが民主主義の根幹であるところの同意原則のハッキングだ、クソだ、と我々が言えるかどうか、また、どこまでがそれにあたるかという実効力のある線引きのためには、むろん、新しい文脈に沿ってどういう理屈の立て方をするかという議論が必要だ。従って(同意原則の下でこれからもやっていくつもりであれば)問題は、同意という原則そのものを分析することよりも、「ことになる」とか「せざるを得ない」「見える」という事態と、それを技術的に可能にするメカニズムのもつ含意を、まずはもう少し明確に記述することにあるだろう。それによって、同意する個人ではなく、同意した「ことになっている」個人といういっそう深化して複雑なレベルが明らかとなり、そこから翻って本人の同意という概念をもう少しいじらないといけなくなってきているのだろう(フーコーあたりがやっていたのも、こうした個人の内面への権力の浸透の論理という風に解釈できるのではないかな)。

https://wired.jp/special/2019/ai-yuval-noah-harari-tristan-harrisで警告された通り、今後、人は(例えば)自分の性自認にそって物を買うんではなくて、ある日突然自分に送られてきた広告を見てはじめて自分の社会的性別を「知る」ようになる可能性がある。というのも、この広告主はあなたの行動から、あなたをターゲットにしてこの広告を送ることにしたからだ。あなたがクソ企業に同意するとは、彼らが作り出した「個人像」が、あなたが自己決定するあなたのアイデンティティーに先んじて、あなた個人を決定する、そんな世界への「同意」になりつつあるのだ。これは、いわゆる「アイデンティティ(・クライシス)」の新しい展開として興味深い。これは、高木氏が述べたような事態と共同して、想像もつかないような事態へと発展する可能性がある。均一化した人工知能による固定評価を、社会全体が採用することによって個人の多様性が侵害されるというのである。リクナビの件も、日本型雇用という狭い(だが一国の根幹に関わる)領域で同じような事態を引き起こした可能性がある(立証は不可能)。

 

同意していれば民主的?

同意ということのないものを、個人のそれぞれにとって同意のあるものにしてゆこうということで、19世紀以降、病院や学校など、さまざまなものが「民主化」されてきた――そういういわば民主主義の“正史”にとって、今動いている話、同意していれば民主主義なのか、という問題設定は、既に挑戦的なものである。もちろんこれは、「社会的合意」の主体を自律的個人の意思決定に置くかつての個人主義的な自由主義のモデル――それはいわばナポレオン的な意志決定が自律的主体を形成し、最後には社会を形成するという、カント・フィヒテあたりで自覚されていた意志の論理である――が、「ファンタジーだった」とか「でっちあげだった」ということに尽きる話ではない。ファンタジーユートピアといったイデオロギー(理想論・観念論・夢)の作成はむしろ、社会にとってとても大事な要素だ。この神話の「解体」が示しているのは、解体というよりは、合意ということで「何を意味しているのか」という解釈の力点の変更である。後者の意味での「同意」の哲学的含意はだから、こう言って良ければ、まだ全く哲学史ではなくて、せいぜいたんなる哲学的問題だ。

こうした中で、今回のリクナビは論外として(だって本人が同意するはずがないサービスだからね)、その解決策として形式的な「本人の同意」がなされていたケースなら、そういうことをやっていいの、という話は、新しい展開と広がりを見せている。会場では高木氏&鈴木氏から、サービスごとの合意を取り付けるようにしてはどうかという案が出ていたが、ただでさえ多すぎて(空気のようになって)形骸化しているようにも思えるので、ここではほかの二つの意見を紹介する。まず一つは以下のリンクで橋詰氏が提案しているように(https://www.cloudsign.jp/media/20190910-jilisseminar2nd/)、第三者に立ってもらうということになるだろう。個々のプライバシーポリシーを話し合う公的な場みたいなものがあればよいということだ(専門家同士か、あるいは市民による監視)。これは言ってみれば言葉の原義に立ち返って、ポリシーが「ポリス」にとって真剣に討議されるべきだという方向といえるかもしれない。

これは「本人」同意に依存しすぎるシステムからの脱却であり、形式的本人同意そのものの持つ思想的困難を正面から解決するという息の長い話より、実践的には有効だろう。

第二に(といっても、これらの案はどちらかという話ではなく、両立する)依田氏がセミナーで述べていた事後の現状回復をもっと明文化・義務化するのはどうだろうか。この本人の同意というものの「後」を考えるというアイデアは面白く感じた。たとえば、ダメなサービスだなーと後で思った場合、企業は何をしてくれるのか、ということを最初に書かなくてはいけない、とする。かつての強い主体のイメージでの「同意したのが主体」ではなく、あの時同意したとしても、今回「後悔しているのが真の主体」なのだ。同意の主体を限定合理性を持った個人としてのこの後悔の主体として読み替えて事後的に補償する制度を、サービス提供者にはじめに義務付ければよい。この意味で、このモデルは新しい主体作成の方向と言える。彼の話は一貫して、個人の自由な意志決定はもちろん保証しながら、それでも自律的個人の意志決定に頼らないでどうやって幸福を増やすことができるかという観点に立っている。古い言い方でいえば、理性は情念の奴隷(ヒューム)という理解の方向と親和性を持つと言える。

 

同意はなぜ必要なのかを考えると尊厳の話になる

ここで、とりあえずの到達点と思われる地点に来た。 同意があればそれで良いという見方は、「自律した諸個人本人による意思決定によって何が守られるのか、あるいは守られるべきなのか」という答えにきちんと答えないで、ただ形式的にそれを運用しているだけの態度であり、カントやフィヒテの継承ではなく、19世紀の努力の継承者たる資格もない、単に片手落ちの議論なのだということである。そしてもちろん、近代は、空虚かもしれないが、人間社会が何としても守るべきものについての一つの答えを持っている。「尊厳」である。今さらという感じもするし、一周遅れという感じもする。だが、必要な解釈上の手続きさえなされれば、この概念の空虚さ・不分明さにも関わらず、尊厳(dignitas)を持つものは「それにふさわしい(dignus)扱いを受けるべきだ」ということは、常に成立することがわかる。

確かに、多くの解釈が、尊厳を権利の源泉であるとか、なにか内的な価値のようなものと考えてきたし、それも或る意味正しいが、尊厳を「~にふさわしいこと」「~に値すること」という動的な表現に置き換えることは可能である。したがって仮に尊厳を持つ主体をパトス的主体と読み替えても一向に構わないとしたら、そしてまた、そういう主体を依然として「人格」であると解釈することも可能だとしたら、どうだろうか。実際、我々は同意するとともに悩んだり後悔するような存在を人間的と呼ぶのではないか? そうした人々がふさわしい扱いを受けるべく社会の中に法(権利)を制定することは、可能でありかつ義務ではないだろうか?