合宿に行ってくるなど

よっすどーも。浜田です。昨日まで哲学の連中で合宿に行ってました。皆さんお疲れ様。

 

ぼくはといえばまずそこの旅館のご主人が印象的でした。家族経営のようなそんなに大きくないところでしたが、飯はおいしく量多く心こもってる感じだなあと思っていたところ、旅館のご主人が朝早くから一生懸命掃除していたんです。なんかこう、太いふくらはぎでごま塩頭、ちょっと田舎のお寺の住職さんみたいな感じというのでしょうか。で、チェックアウトの時にそのご主人、「ありがとうございました」どころではない。いっこうに、深々と下げた頭が上がらんのです。もうね、ずうっとお辞儀状態。

 

流石に、ぼくらみたいなのにそこまでされるとは思わなかった。で恐縮しまして、こちらの旅館は長いんですか、と聞いたりしました。3年でダメになると言われましたが、30年、やれました、あと何年やれるかわからないけど、と。こんなに古い宿で、行き届かない面も多々ありながら、ありがとうございました、よく見つけていただいた、ありがとうございます、と。

 

なんか大病でもされたのかなというくらいのお人柄でした。いやあまり見ない人だよ。

 

あとやはり深夜には様々な話がしやすいんですが、風の噂で古い友人の話になりました。彼も研究者として身を立てることにどうも違和感を持ちはじめたそうなんですよね。ぼくの言い方だとどうやら「血迷っている」。いろいろなことをやりたくなり、そしてなにもやりたくない。

 

あせりは禁物で、一週間くらい寝てれば軽ければ治るんでしょうけど、それを自他に許せない。全てが行き詰まりを見せた時には、あんまり血迷うことはないんだけど、ちょっと周囲に認められた時にはじめて、「あれ俺なにやってるんだっけ」ってなるパターンなのかなと思いました。人ごとではないなあと顔を見合わせたわれわれに笑顔はなかったのでありました。

 

これは、今回の合宿で皆が思い思いに発表したんですけど、そこで偶然にも一貫したテーマとなっていたんじゃないかと思ったことでもあります。皆の発表にぼくなりの線を引くと「情」というものになります。

 

やっぱりね、ニーチェもそうだけど、自己認識は自分の価値評価に気づくことから始まり、そしてその価値の系列(経歴というのではなく)の一番先のものが「原理」になるべきなんですよ。一番こころひかれるもの、憧れるもの、したがってそれによって自己を低く見、憂鬱にし、悲しませるものこそが、自分のこだわりとなり、自分を燃やすその原点となるわけですね。

 

哲学だって「自分にとって第一のもの」とは言いづらい。天下国家を論じながら自分の生活すらままならないでしょ。でもなんでやるかって言ったら、「本質として第一のもの」に向かって人間は努力するんじゃなかろうか、ということですね。

 

これを教えてくれるいろいろな「情」をひっくるめて「愛」ということができる。ルソー、カント、そしてニーチェが強調する「愛」は教えられないという教説は、科学的認識観に対していつも対立するだけでなく、価値評価の自由のためにも極めて重要です。特に現代日本のように愛国と恋愛を強く評価する文化では愛国をたとえば教えようとする。宮台さんだったか鶴見俊輔だったかな、書いてましたが、その教育制度の中の一番を取るという、「自分にとっての第一」がそこには入り込む。これは愛の堕落で、愛はむしろ自分を低めることを教えるというのが基本です。何に対して低めるかを誰かが説明することはできないのです。

 

この感情の「非合理性」と、理性的であろうとすることの中を生きるということは、単に「理性的動物」であるということではもう済まなくなってきてい、一方、哲学も「知への愛だ」と言ってきた経緯がある以上、責任がなくはないのだから、この感情の問題は本当に大事。

 

だけど更に、感情が上手くいかない場合があるし、「本質として第一のもの」に気付けるかはわからない。ぼくなんかは、「今のように哲学やってるよりあの旅館のご主人の方が徳が高い」と思ってしまいましたよ。

 

周りからしたら「努力すること自体が問題を作ってる」こともあるし、諦めた方が前に進めることもある。その辺りは新しい感情論の契機になってるかもしれないなあと思いました。

 

ではでは。