草々梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞V)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで、梶井基次郎さんの檸檬を読みます。今回でラストです。

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丸善に「爆弾」を仕掛けたという幸福な幻想に浸りつつ、京都の町へ下っていくラストのアナーキーな終わり方は、妙に明るい。梶井が好きな人の中には、この明るいダダイズムみたいなものがイイという人が結構おられるのではないかと想像しますが、どうでしょう。

 

病苦とか生活苦で想像されるようなじめじめしたところがない。革命を起こしてやろうという明確な目的も殺意もない。というかそもそもこの小説に他人は出てこない。どうも自分の心のことばかりなのです。そのくせちょっとテロリストっぽいところがある。

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時限爆弾という表現も、短刀やピストルのような後ろ暗いところがない。指向性とか明確な対象がないかわりに、十分後という時間指定のみがある爆弾というあり方は、行為や生に対する20世紀特有の(と言ったら大げさかな)象徴となっているんじゃないかと勝手に思っています。

それまでの認識論は、接触を基本としたものか、あとは弓矢みたいな矢印を、わたしからあなたに向かって書いて、それが主客二元論でどうのこうのという話でしかなかったのですね。メロドラマの相関図みたいなやつです。でもこれだと、十分後には希望が持てるというありかたは記述できないんじゃないでしょうか。

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指向性がないと言えば、冒頭の心の中にある「得体のしれない不吉な塊」もそうですね。捕まえようがない。そうすると、この不吉な塊を吹き飛ばすために爆弾を仕掛けたんでしょうか。

 

これも、一つの解釈だと思いますが、それだと丸善に代表される知性的なもののみが不吉な塊の象徴となるわけで、ちょっと片手落ちだと思います。たしかに「私」は自分の知性に嫌気がさしているように思えるが、同時に感覚にも宿酔を感じているので、こっちも壊さないといけない。

 

ぼくは、「得体のしれない不吉な塊」そのものが爆弾になったという読み方があり得ると思います。

押しつぶされているという冒頭の告白をした心理状態が常識的な苦悩だとすると、苦悩を解決するために、いろいろもがくわけです。外から他人が、その苦悩は生活苦だろうとか、病苦だろうとか、いろいろ解釈できるかもしれませんが、当人にとってはそれはあまり関係ない。彼にはそれを理解する能力はないからです。

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でも、その問題解決能力そのものが問題を生み出している可能性があるとしたらどうでしょう。つまり、借り物の知性と病んでいる感性を使っているからこそ、「私」は行き詰っていたのではないでしょうか。

そうであるならば、初めから問題なんて何もない、世の中は無だ、と観念したほうが早い。「虚無」の一線を超えるとひっくり返ってぽっかり明るくなるということもあるのではないかと思います。

 

問題解決能力が問題だったという、この転倒の結果、不吉な塊がすべてをぶち壊す希望になるのです。

 

うーん、そう解釈したらなんだかこの小説がそんなに大したことないシロモノのような気がしてしまいましたね。我が不徳の致すところです。

 

f:id:beinginadequate:20170808225724p:plainおしまい。