しげしげ梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞IV)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで、梶井基次郎さんの檸檬を読みます。f:id:beinginadequate:20170808232450p:plainだいばくはつだ。 

 

前回、無限ループの話の途中で終わってしまいました。

「あ、そうだそうだ」その時私はたもとの中の檸檬れもんを憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」

という謎のひらめきによって、「私」はそれまでの一連の行動を新しく秩序づけようとするのでした。

f:id:beinginadequate:20170815082143p:plainそうだじゃねえし。

そして「私」は、

 

私は手当たり次第に積みあげ、またあわただしく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬れもんを据えつけた。そしてそれは上出来だった。

 

無限ループ行為は、この幻想的な城づくりという目的論的行為系列になるのです。

 

こうした階層化・系列化によって物事を相関的にとらえるというのは日常でもありふれていると思います。

例えばトランプカードが無雑作に、まったく無秩序に並んでいたとしても、「これ神経衰弱ですよ」と言われれば「あ、そうだそうだ」に移行してしまうというようなことはあるわけです。

 

ただこれと異なるのは、「私」にはこれはゲームであるという発想がないことでしょう

 

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本屋で作ってるというのは、比喩ではないと思います。「私」にはもう、そのような現実検討能力はなくなっているんですね。

あの教養主義的な知性もここではほとんど影を潜めています。あるのは高揚感と、妙なソワソワとした雰囲気です。

見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私はほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。

また、感覚すら変様しています。檸檬の周囲だけ変に緊張している

不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。――それをそのままにしておいて私は、なにわぬ顔をして外へ出る。――

私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

 

もうこれほとんど幻聴みたいな感じですよね。聞こえない声が聞こえたような書き方をしている。

「出ていこうかなあ」と提案する自分がいて、「そうだそうだ」「やっちまえよ」と後押しする自分がいる。知性と感覚の対立以外にも、「私」の中に様々なものがいるらしい。

 

特にこのそうだが他を圧倒して引っ張っていくとき、「そして」という接続詞はありますが、いわゆる論理的なつながりというものがない。想像を一挙に行動へもたらそうという動きがあります。「私」にとってそれは「不意」であったり「変」であったりする。が、もう止まらないのです。

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続きます。