つくづく梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞III)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで、梶井基次郎さんの檸檬を読みます。

f:id:beinginadequate:20170808232134p:plain

 

「今日はひとつ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。

 

檸檬を手に入れた「私」は丸善に入っていきました。ここから結末にわたって、一文ごとに緊迫した心理状態の描写が続きます。

 

しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上はたまらなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色だいだいろの重い本までなおいっそうのえがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。

 

たまらなく嫌なのに同じことを繰り返しちゃうという「呪われたこと」をやるのはなぜでしょう。

ここでは、もはや「私」はページを見ているんではなく、「日頃から大好きだった」という過去の記憶とか、「手の筋肉に疲労が残っている。」とかいう直接的な身体感覚しかなくなっている。想像されたものの内容はどうでもよくなり、想像することの力動性が中心となります。

 

「日頃から大好きだった」

「手の筋肉に疲労が残っている」

「それも同じことだ」

「日頃から大好きだった」

「手の筋肉に疲労が残っている」

「それも同じことだ」

 

無限ループになるわけです。大好きだったというのは、いま好きなんじゃなくて、好きだったという過去にたいする想像的な追認でしかないのですが、「私」の意識の内部ではそこが行き止まりになっているというべきか、壊れた機械みたいに同じことを繰り返してしまう。彼にとって「実感」と呼べるのはせいぜい手の筋肉だけです。

 

本屋で隣の客が「手の筋肉に疲労が残っている」とつぶやきながら本を取り出しまくってたら限りなく近寄りたくないんですが、本人はさらに新たな状態に入っていきます。

 

「あ、そうだそうだ」その時私はたもとの中の檸檬れもんを憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」

 

正直に言うと、ぼくはこの「そうだ」にぞっとしましたね。あまりに真に迫っているというか、これは実際にぼくがある人に経験したことにそっくりなんですよ。まったく何言っているかわからないのに、勝手にどんどん納得していってしまう。確かにこういう風になっちゃう瞬間というのはあるんですね。

f:id:beinginadequate:20170808232320p:plainそうだそうだ

哲学なんかだと、無限ループや無限後退は日常茶飯事なんですが、心の状態において無限ループというのはせいぜい3回とか5回とか7回くらいまでぐらいじゃないでしょうか(なぜかわからないけどたぶん素数)。そこで脳が何か妙な処理をして、「あ、そうだそうだ」に移行してしまう。

 

脳科学ではどうなのかわかりませんが、循環を終わらせる何かストッパーというかそういう装置があるんですよ、きっと。数学者だって、1+1+1+...とやっていって頭がおかしくなりそうだったので、nを作ったのではないか。

 

おそらくきちんと意識できるのは、私は考えるということを私は考えるということを私は考える、ぐらいまでであり、いくら人格に階層があろうとも、催眠かけて出した複数の人格にさらに催眠かけて人格出すというあたりで、おそらくこの限界がある。それが物理的な限界なのかどうかはわからないけど、最終的には意識は自己を制御できる。無限ループっていうのは、どこかで終わるのではないでしょうか。

 

続きます。