ますます梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞II)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで梶井基次郎さんの檸檬を読んでいます。

 

f:id:beinginadequate:20170808205557p:plain

私は何度も何度もその果実を鼻に持っていってはいでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻をつ」という言葉がれぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……
実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。

 

前回も言いましたが、カリフォルニアとか漢文とかの知識をすぐ持ち出すイヤミな知性と、「これ」とか「あの」とか「あんな」という言い方であらわされる感覚的なものとがないまぜになっているのが「私」の語りでした。

f:id:beinginadequate:20170808205831j:plain

しかし、そうであるならば、いつも通り嫌な気分になってもよかったのです。知性は西洋からの借り物であるし、感覚は肺尖カタルと神経衰弱から独立することはできません。

梶井さんが「得体のしれない不吉な塊」に押しつぶされそうだ、といくらガンバッてみたところで、要するに病苦と貧困と自堕落な生活に起因する若者特有の不安でしょ?診断解釈されるか、現実を見なさい、と諭されるか、もしくは、そんなに世界が苦しいなら、一緒に革命運動に身を投じないか?といわれるのがオチでしょう。

 

「単純な」と梶井は感覚について繰り返しますが、檸檬のたとえようのない快さ、冷たさとは、確かに肺を病んだ身体の持つ「熱」に対する冷覚です。「私」自身も認めているように、

 

友達の誰彼だれかれに私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱いせいだったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

 

のです。でも、檸檬を握った「私」はなぜかそこで幸福になってしまうんですよね。なんでだろう。

 

で、考えたんですけど、檸檬の冷たさを喜ぶってのは病人にも普通の楽しみがあるとか、病人特有の楽しみがあるとかいうレベルの話じゃなくて、この「私の熱を見せびらかす」行為の一種またはそのものなのではないかと思うんです。

 

大喀血をしながら、その今しがた吐いたコップ一杯の鮮血を「葡萄酒を見せてやろうか……美しいだろう……」と友人(三好達治)に言ったというナマの梶井さんが、ここにはそのまま表れているんじゃないか。

f:id:beinginadequate:20170808230029p:plain

やけくそといってもいい。祖母からもらったアメなめて、それで結核になってしまった。学業も労働も結婚もできなくなる。伝染病である。いわゆる近代的な価値観のほとんどが初めから達成不可能であるとされる。それは市民としての義務を免除されている出征前の軍人だとか囚人に近いんじゃないかと思います。すなわちいわゆる執行猶予ということです。

 

そのくせ、教養としては大正の高水準の教育を身に着けた梶井さんとしては、内心忸怩たるものがあったと想像します。「持続可能な社会」とか現代でも言われるように、意識されるかどうかは別として、基本的には永遠の持続性を目指すというのが近代社会の理念としてありますから、それに対してヘソを曲げたくなる気もわからんでもない。そりゃ手を握りたくなるかもなあ、という。

 

しかし、敢えて言えば、だからこそこういう表現は、小説としてはあまり良いものではないと思うのですが、いかがでしょう。ぼくは、そういういわば本当のことをそのまま書いてしまってはいかんような気がするんですよね。カミソリを封筒の中に入れて送りつけるようなのと、どう違うのかと思うんです。

 

続きます。