前略梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞I)

 

f:id:beinginadequate:20170802111805p:plain

 

よっすどーも。浜田です。一応文学部卒の端くれですが、お手柔らかに。今回は、梶井基次郎さんの『檸檬』(1925)を読んでみようと思います。

 

 

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖はいせんカタルや神経衰弱がいけないのではない。

 

「えたいの知れない不吉な塊」っていきなり冒頭からマヂ意味ゎかんなぃ。。。「宿酔」もああそうですかとしか思わない。なんですか、この書き出しは。これでやっていけるのでしょうか。

 

でも、「いけないのではない」と言いながら「肺尖カタルや神経衰弱」がいやおうなしに目に飛び込んでくるでしょ?  これならわかる。

ぼくとしてはまずこの事態をちょっと注意してみたいんです。

 

ここのカラクリを理解するためには心の世界における否定の働きというものを考えないといけないというのがぼくの勝手な推測ですが、それはもう千年ぐらい前に定家がやっていました。

 
f:id:beinginadequate:20170802112226p:plain

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

 

花や紅葉は見渡しても「ない」んだから、「花や紅葉を考えるな」といっても無理ですね? その世界は明らかに花と紅葉という発言なしには出現しえなかったんです。「なかりけり」と言っても、花も紅葉もある。しかしその世界は、花も紅葉も「ある」世界、というわけでもない。

 

梶井の場合も定家卿のこのやり方に「乗った」のではないかと思いますねえ。読者にしてみると、「えたいのしれない」と言っているのに、結核だの神経衰弱だのが問題じゃないというわざとらしい否定によって、逆に正体の分からない何かは、なんだか了解できるような気がしてきます。

 

でも、本当にそうなのでしょうか。神経衰弱で結核で死にかけのアル中の青年ていう限定がどこまで効いてるのか。

 

f:id:beinginadequate:20170802112121p:plain

 

例えば昔、カミュの『異邦人』(1942)をめぐって『異邦人』論争というのがありました。『異邦人』を一個の病気や妄想の記述だっていう読み方と、いやここには当時の若者の実存とか清澄な感情が現れているんだ、みたいな読み方の論争でした。

 

檸檬』に引き付けて言えば、それらの見方は両方とも、神経衰弱で結核で死にかけのアル中の青年という限定を結構重くとってるんじゃないかと。人間を患者と健常者に分けるか、あるいは同時代の若者として、つまりは同類として理解しようとする前提がある。

 

しかしそうなるとただの心境小説ですよねこれは。確かに世間的な了解の次元では、梶井或いは「私」は病人であるし、また普通の俗人ないし生活者ともいえるでしょう。でも(別に社会構築主義に立つわけじゃありませんが)今はもう若者の結核も神経衰弱もほぼないので、小林秀雄さんあたりまでなら当たり前に知ってたかもしれないけどその後の人には読めないものになりますよね。ジェネレーションギャップがひどすぎて、了解できない。

 

果たしてそれでいいのか。ここに描かれている「不吉な塊」は、やっぱり個人の病理あるいは心理というよりは、それ以上じゃないかと思うのですね*1

しかしまあ、この「えたいのしれない何か」はさしあたり「私」氏の心理に担ってもらうとして、先に進むことにしましょう。 

f:id:beinginadequate:20170802112945p:plain

 

――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

 

この想像力豊かな「私」は次第にこれは錯覚であるという意識も、壊れかかった街も見失っていくわけです。その際にも例の否定の働きがある。つまり東京、大阪、仙台、長崎、「ではない」と言って、逆にそういう都市を読者の心に浮上させるという情景づくりを梶井は怠りません*2。さらにこのことが、いわば「逆説的な美」の主張にかかわってきます。つまり、

 

何故なぜだかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋がのぞいていたりする裏通りが好きであった。

 

すこし汚いもの、古いもの、壊れかかっているもの、逆にこびてくるもの、これらが好ましい。これって、梶井だけじゃなく、路上観察から果ては『千と千尋』みたいなものまで含めて、日本にすごく普遍的な価値観だと思います。ただ重要なのは、梶井がこのようにみすぼらしくて美しいものに理解を示しつつも、そこに留まっていないことだと思います。

 

というのは「私」はそういう町をまた他の町に例えたり、頭の中で変えていってしまっているということがあります。そして後で詳しく考えますが、この美の持っている逆説性を現象的に叙述するというより、自らに引き受けた場合にどうなってゆくかということが、この小説の面白い点だと思うんですよね。芸術家が生活者の立場をどうとらえるかという、名作『桜の樹の下には』にも通底する問題だと思います。

 

生活がまだむしばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落しゃれた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠ひすいいろ香水壜こうすいびん煙管きせる、小刀、石鹸せっけん煙草たばこ。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。

 

ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗うるしぬりの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調アッレグロの流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムにり固まったというふうに果物は並んでいる。

 

で、これが例の有名な丸善と果物屋ですね。だいたいこの形容の夥しさはいかにも大正教養主義的だなと思うんです。たかが果物屋をイタリア音楽やギリシャ神話や数学の概念でたとえてしまう。

 

東京だの長崎だのと言って「俺はそういう町も知ってるぜ」という気配を匂わすのも嫌らしかったけど、これはもうディレッタントというよりスノッブです。こんな大学生崩れがいたら嫌味でしょうがない(例えば「私」が恋人に吐きそうなセリフとか想像してみましょう)。「私」の感性の語彙はまぎれもなく「丸善」のフランス香水に象徴される外国からの借り物です。

 f:id:beinginadequate:20170802112345p:plain

つまりぼくはここにこの時代のグローバル化の問題みたいなことを考えてしまうんです*3。『檸檬』の頃は、大戦景気を経た後の慢性の不況の時期です。敗戦国ドイツの莫大な賠償金。ドイツからの現物支給で崩壊するフランスの産業。どっと舶来品が現れるのが予想できます。一方、このころ日本はどう考えても孤立し始めていた。第一次世界大戦の勃発を「天祐」といった外相がいたんですから、その国際感覚の拙さはいうまでもない。

 

梶井の鋭敏な感性を考えると(というよりこの小説を高校生に教えようとするおじさんたちの考えを邪推すると)、梶井が先取りした昭和初期の「借金取りの亡霊」というのは、どうも経済的困窮だけの意味ではないんじゃないかと思います。維新の亡霊はないのか。日清や日露のツケというものはないのか。

要するに、ここでは、精神的にも舶来思想との交流の限界を痛感しているように思うんです。ですから、

 

その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。

とか、

――つまりはこの重さなんだな。――

 

など、「この」とか「あの」としか言いようのない感覚こそが重要となる。

にもかかわらず、「私」の知性は相変わらずこの感覚を表現しようとして、

 

レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色

 

と、機械化され規格化され西洋化され近代化された比喩をしたがる。一生懸命、明治大正と近代化してきたその惰性というか勢いに、死に掛けの青年の魂の悩みまで付き添わせようとするのが「私」の知性でした。檸檬の色がレモンイエローだなんて作家として大丈夫かというぐらい当たり前なんだけど、知性は分解して絵具の色として理解し再構成するそればっかりしか能がない。

言ってみればこの知性と感性の相克がまず、前提となっているんだと思うんですね。

 

しかし、多くの批評家が見抜いているように、『檸檬』は感覚の直接所与を称揚するだけのものでもないと思います。ひとつには「宿酔」がある。知覚心理学がどう教えてるか知りませんが、梶井の場合、感覚の連続使用は、飽きるんじゃなくて、不快を催すんですよね。

 

つまり、この相克にははじめから限界が見えている。知性による再生が債務超過で行き詰まりを見せるのと同様、頼みの感覚も、生成も、美も、感傷に爛れていわば「宿酔」のような症状となって「私」に復讐してくるわけです。 

f:id:beinginadequate:20170802112651p:plain

 

 

ながくなったので今日はここまでです。ではまた。

 

 

 

*1:ただここも難しいのです。不条理ってのは、「私」にとってえたいがしれないのか、それとも人間的な理解を超えているのか、ぼくは解釈を決めかねてます。しかしいずれにしてもそれは、ちょうど赤ん坊にとって自分の不安がどこから来たのかわからないのと、発達心理学者にとってもその赤ん坊の不安がどこから来たのかわからないという場合との違いにすぎないとも言えます。その不安の深刻な体験そのものがそれで目減りするわけではないでしょう。

*2:なおカントの有名な「構想力」の定義も否定を含んでいます。構想力とは「対象が現前していなくとも、対象を直観のうちに表象する」能力であり、従って言い換えれば、存在しない対象すら表象してしまうような能力です。

*3:この主題はイプセンと朝鮮団扇と武士道に囲まれた『手巾』の芥川にも見えます。