苦しむ技術(「つらいのはあなただけじゃない」という言葉について)

よっすどーも。浜田です。今回は「つらいのはあなただけじゃない」っていう言葉について考えます。ぼくはこの言葉が苦手です。悪気ないんだと思いますけど(ていうより大体はアドバイスしてやってるんだって顔もされるんですけど)、こういうことを言われるとずいぶん傷つくんですよね。言わなくても思ってるだろうなってわかった瞬間に心の中で何か崩れる音がします。

 

例えその他の点で尊敬できる人であっても、何かの折にこういう一言があると、かあ・・っとなって、ああこの人駄目だなんもわかってないって思うんですね。 思いませんか。そうですか。

 

やっぱりこういう折にね、言葉の力ってすごいなあと思うんですよ。その引き起こす感情の量と質。思い出すたびに怒ったり考えたりしてしまう。が、実際、どう理屈をこねてみても、「つらいのはあなただけじゃない」って真理だと思うんですよ。「いや、おれの苦しみは世の中と関係ない、絶対的苦痛である」というには、あまりにもぼくは理性的なんです。でも、コレを人に言われて笑ってはいられないんですね。

 

しかも、様々な宗教とか哲学が、苦しみを分かち持つことの重要性を指摘してもいますよね。共感とか共苦と言われている。つまり「つらいのはあなただけじゃない」というメッセージはある場合において救いであったり、真理であったりするらしい。なのに、この場合には呪詛になっている。この非対称性は何なんだということです。

 

でね、ここに秘密オカルトやばいがあると思うんです。時として真理が人を傷つける場合もあるという月並みな見解でお茶を濁す前に考えたいんですけど、なぜ同じ言葉がこうも相反した効果を生むのか。共感という考えが持つ、ちょっと後ろ暗い背景があるんじゃないか。

 

たとえば、共感魔術という考え方があります。簡単に言えば、藁人形にくぎを刺せば本人にも呪いが行く、というようなのを指します。Aさんが藁人形に共感している関係にあるから、藁人形を傷つけるとAさんにも傷が行くというんですね。ほーん。後ろ暗いですね~。

 

「つらいのはあなただけじゃない」という言葉に共感魔術的な発想がもしあるのだとすれば、その霊験アラタカ・・・・・・な理由もわかるような気がします。数千年来の「共感」という白魔法が、逆転して黒魔術的に他者を攻撃しているようなものでしょう、それは。

 

この類推でいくと、共感の悪用というのがあるってことになりますね。ぼくは、「苦しんでいるのはあなただけじゃない」って言葉を言う人に限って、大概何かで苦労した経験があるんじゃないかって思うんですね。その経験の質・量はともかくね。

 

つまり、苦労した人にはある割合で、何かの拍子で他者の苦痛を受けると増幅して相手に返す仕組みのようなものがくっ付けられてんじゃないだろうか、と思うんですね。なんらかの苦労をした人が、苦労は自然であると思い込む不幸な体質を背負ってしまった、という。これだけだとただのオカルトなんですが。

 

苦労については、また「若いうちは苦労を買ってでもしろ」というような言葉があって、これも難しい。ちゅうか害ばかりあって役に立たない言葉ではないだろうか。大学に行って教養を積むより、社会に出たほうが人間的に完成される、という考え方もわかるのですが、人間的完成と苦労の相関関係はそう自明ではないですね(というか、逆に無駄な苦労してろくなことがない場合も多いだろうと個人的には思います)。

 

苦労した人は苦労にそれなりの意味や意義を見つけようとしたり、あるいは苦労を引き受けざるを得ない運命である、ととらえがちですね。それはもちろん自由ですけど、その際しばしば、苦労している他者を見るとその苦労を当然だと考える傾向がその人の心の中に同時に生まれるんじゃないでしょうか。すなわちここにもまた、共感が引き起こす相反した態度がある。

 

  • 「お気持ちお察しします」(つらいのは当然である)…仮に共感Aとします。
  • 「つらいのはあなただけじゃない」(つらいのは当然である)…仮に共感Bとします。

 

ぼく個人の経験では、この「お気持ちお察しします」という言葉と「つらいのはあなただけじゃない」という言葉には途方もないギャップがあります。だいたい現代の考えで推すと、この二つのものは共感能力という共通の心理学的な根に基づくものであり、したがってそのギャップもたんなる心理的落差である、ということになろうかと思いますが、ぼくにとっては果たしてそうだろうかと疑わしくなる程度にこの落差はひどいものです。哲学的に説明をつけたい、つまり心理的落差ではなく概念的差異を問題にしたくなるんです。

 

それで、これは嫌がらせについても似たようなことが言えると思っています。嫌がらせをする人って、他人が嫌だなあと思うことに大いに共感しているわけですね。認知的か、あるいは情動的かは別として、だからこそ「他人の嫌なことを敢えてできる」。他方、いわゆる親切な人ってのも、「他人の嫌なことを敢えてできる」。好きな子に嫌がらせをする子の心理にかなりそのあたりのことを学べると思いますけれども。

 

ここでは嫌がらせのつもりなく「つらいのはあなただけじゃない」と言ってしまうときを問題としているので、話を戻します。共感AとBの区別でむずかしいのはこの際どちらの人も「お前の苦労はわかる」といいうることです(本当に理解しているかどうかは別ですよ、念のため)。だから何というか、いい共感と悪い共感があるんですね。もちろん大雑把に言うと、ですが。

 

そしてこうして見ると共感Aは、半ば曖昧であり、たんなる一般化だったり表面的同情に留まっている可能性は否定できませんが、それでも改善される余地がありそうなのに比べると、共感Bの方が明確な形で「悪」を露呈しているのは明白だと思います。

 

ということは、共感を世の中が求め、宗教や哲学も共感を無雑作に勧めれば、共感Bが増え、世の中は悪に充ちていくってことになるじゃないですか。えっ、悪い麦のたとえだ、って? 耳のあるものが聞けばいい、だって?

 

じゃ、人はどちらの共感パターンに進むのか。あるいは進むべきなのか。それにはどのような背景やメカニズムがあるのか。また共感Aは本当に「善」なのか。あるいは罠があって、共感Aがそれ自体としてはまともだとしても、自然に共感Bに移行することはないのか。

 

いずれにしましても、哲学として共感を検討する場合には、そういうことを考える必要があるってことが、(少なくともぼくには)よくわかってきました。長くなったので今日はこれで終わりです。

 

これだけだと救いがないので、よい共感の例を一つだけ。例えば親鸞なんて人がいますよね。ぼくも詳しくは知らないんだけど、まだ法然の弟子として京都で活動していた頃、法難といって現在の新潟県あたりに流されたらしいことが書いてあります。政権によって迫害されたわけですね。浄土真宗のような宗教が生まれることは、流罪になることでもあった。で、そういう人がこういう言葉を残していたりします。

 

一人ひとりよろこばゝ、二人ふたりおもふべし、

二人ふたりよろこばゝ、三人みたりおもふべし、

その一人いちにん親鸞しんらんなり*1

 

このようなのも共感といっていいんじゃないかと思いますが、かれはやっぱり非常な苦難に立ったうえでそれをこういう形であらわすことができた、例を示した人と思います。

 

 

 

 

もう何度も言われてきていることですけど、西洋の思想史においては、共感というのは近代の心理学以前にも、共通感覚、常識・良識、それから意識という言葉と非常に密接なつながりがあります。これに対して共感の「感」が快・不快のような二分法を受け入れるのは割と新しいわけで、つまり共感はもともとは、単に「共に感じること」、しかも「共に苦しみや喜びを味わうこと」よりも広い次元をもった言葉であるわけですね。

 

したがって、いま共感と呼ばれない領域にも、その余韻が感じられるのではないかと思うんですね。そのあたりを検討しつつ、共感の可能性について今後も探りたいと思います。ではまた。

*1:御臨末の御書