ソーシャルワーク専門職とは(受動性について)

家族が事故で入院して数月。いまは転院してリハビリを行っている。幸いにして体の障害は残らなかったが、見た目にはわからないような種々の障害を見つける。いろいろ調べたりして、ふと思う。

ソーシャルワーカーの存在感ねえな…。

こういう暗中模索状態においての専門職の在り方とはどういうものだろう。

(この物語はフィクションです)

 

 

よっすどーも浜田です。えっと、このブログでは基本的には哲学みたいなことを書きますが、たまにケアとか福祉とかの話題も書きたいと思ってます。今回は福祉の専門職について思ったことを書きますね。

 

受け身な専門家が困る。

困るんですよ。こちらから聞かないと動いてくれない人は。こちらは素人で、何が何だかわからないんだから。提案してほしい。選択肢を提示してほしい。介入してほしいんですよ。

 

世間ってたまに絶望的なくらい無知であったり無関心であったりしますよね。ぼく自身も偉ぶることなんてとてもできないんですが、なんていうか、話せば話すほど分かり合えないことがわかってくるときがある。

 

これはみじめですよ。人間の言語って(大きくでたな)その仕組みからして不和の兄弟みたいなもので、共に何かを成し遂げるためにもともとできてないんじゃないか。そんな風に考えてしまう。

 

 実際問題、不和を避けるには話さないのが一番だ、となりやすいと思うんですよ。問題は本人と専門家と家族にまかせよう、的な。関係ない、できれば話さんでもらいたい、的な。そういう見方が社会に蔓延しているような気がするんです。

 

しかし、ですよ。しかしそんな時においてさえ、ぼくは心のどこかで、でも自分だけじゃない、世の中はきっとそうやって苦しんでる人がたくさんいるんだ、と自分の側を普遍化しようとしている。

 

それって一面では真実だけど、他面ではギマンですよ。心の中で世の中を苦しんでる人だらけにしてるんですよ。結局はどちらも、目の前にいる人を無視しようとしている。臭いものはオレの目の前から消えてくれ、的な。でもそんな了見で社会が長続きする筈がないとも思うんですね。頭に来ますが。

 

話、ちょっと変わりますけどね。ネットで偽の医療情報に踊らされるニュースが相次いでいました。検索したいことと、その人が本当に知っておかねばならない情報というのは、往々にしてずれている、というのが問題の背景だそうですね。問題の逆ヴァージョンもあって、それはCMで続きはwebでとか言われてwebに行った人がそこでも延々と広告を見せられるケースです。

 

検索がしたいんじゃなくて知りたいんですよね。果たしてそういう意味での「続き」を望んでいるのだろうか、と聞けば、もちろんそんなことはないと多くが答えるでしょうね。でも、情報の渦の中をぐるぐる回転していることって、案外多い。

 

受動的であってもいいのでは。

まして、患者自身とか家族の「主体性」なんてものは、もっとしばしばこういう混乱の渦中にあるんです。なのに、その「主体性」が往々にして周囲が「受動的に」「受け身に」ふるまう言い訳になってしまう。患者の主体性を大事にしよう。主体性をおびやかすのはよくないんだ。そう言われていますね。それは確かにそうなんだけども、でもそうするとこういうことになりませんか。

 

  • 受動的でありなさい(患者や家族の主体性をおびやかしてはいけない)
  • 受動的であってはならない(どんどん介入しよう)

 

……。皆さんは受動性をどうとらえてますか? ぼくの見るところ、このような受動性の解釈は日本中にはびこってます。が、ぼくはこれ両方とも本来の意味での受動性ではないと思ってます。前節での議論で浜田は専門職はなるべく受動的であってはならないとする意見だと思われたかもしれないけど、ちょっと違うんです。

 

例えばですけど、Queenの有名な歌の一節に、

 

I was born to love you
With every single beat of my heart
Yes, I was born to take care of you,
Every single day of my life*1

 

ってのがあるじゃないですか。英語ではしばしば受動態が生と感情にかかわるんですね。心臓の鼓動も愛も全部「生まれた」というところから始まったんだとすると、ずうっと受動的です。こういう、自分のただ理性的な一面だけではなく心から相手を受け止めようとする態度が、「受動」ということばでもって示されるべき事態だと思うんですね。

 

受動は運動です。動きです。すなわち作用です。いいことばかりじゃありません。受動喫煙は、受動だけど、喫煙です。

 

受動なのに作用なんですか。

そうなんすよ。いいですか、受動的というのは、受動的だけど、働きなんですよ。背景にあるのは、人間は動機を持っていて、心を動かされて行動する存在であるとする哲学です。つまりパッションや、受け取るという作用性つまり感性(カント)や、受難や受苦や共感、そういうものが受動的であるということです。何もやらんことは、受動的とはいわないんです。英語の授業でそう習ったでしょ? でも、そんなことを、いくら大学や大学院で哲学の人が教えていてもダメみたいだ。

 

なんでダメなのか。それは中学の英語くらいの教養も保てない日本社会が悪い? 哲学や思想史の専門家がほとんどすべて無能だから? うーむ。いやそれならまだしも(よくないが)、ケア的考え方の不在っていうか、かもしれない。でもたぶんそれだけじゃあないんだと思うんです。

 

ぼくは、この受動性みたいなのをさしあたり「日本語日本語」と名付けられるんじゃないかと思っているんです。変なことを言い始めたって顔しなさんな。あのですね、受動性をどうとらえるかって問題はちょうど、「日本語英語」というものが自分勝手な英語の使用であるようなことではないかと思うんです。

 

日本語英語が、いくら英語に達者な人が怒り狂おうともやはりそれなりの妥当性を持つのと同様、避ける、見ないふりをする、遠ざかる、何もしない、そのようなものとしての受動性という意味が生まれ、そして定着していく背後には、そのような言葉遣いを自然にしてしまうような現象があるんだと思うんです。公衆の視線がそれを作りだしたと言えるかもしれない。ことばの身勝手な使用が悪いのではなく、それを許す生の自己解釈じんせいってこんなものがある。

 

間に入って動かなければならない専門職である(たとえば)医療ソーシャルワーカーが日本語日本語の「受動性」を持ってしまう場合が、どういう問題を引き起こすか。それはまあ、言うまでもない。ほんとうの意味での受動性の機会を奪う、という事態です。そして、そういう状況があるからこそ、日本語日本語の意味のまま「受動的に患者に向き合うのはよくない」とかいわれるのです。いや、そういう状況を変えなくちゃいけないのはわかるんですよ。でも、その受動じゃない受動性もあるだろう、と思うんですが、その話はどこに行っちゃったんですか。

 

感情的になれってことじゃありません。むしろ逆です。専門職の相手は専門職ではない。ぼくのように、なんていうかカツオブシのように、踊らされている人です。そこには、様々な想いや、意見や、信念や、事実や、事実誤認や、認知や、そのゆがみや、ぼけや、無理解や、無知や、脊髄反射、そして感情が絡みあっているのだろうと思うんです。ふだんはおとなしい人だって、ガミガミうるさくなるだろうと、思うんです。

 

そういう中で、選択肢の提示や介入、計画の提案をすることを、何かを委ねられることを、何かを任せることを、ほんとうの「受動性」とおもうんです。感情と一体化するんでなしにね。

 

社会の中で良かれ悪しかれ受動性が発揮されている側面ってすごくいっぱいあると思うんですよ。その難しさに立ってほしい。それをあの「主体性」の侵害ではないかと恐れるということは、専門家がほんとうに、真の意味で受け身になっていることではない。

 

「世の中のほとんどはこちらを見ていないし、こちらだってそういう目の前の人を見たくない」とさっき、書きました。そう思う時の方が多いから。でも、世の中はこの受動性の次元に開かれていると思えるときもあります。そうして、ちょっとぼくのことを他人事としてとらえたあの人だって、「生きている」という一点においては受動性を持ち合わせていることを、忘れないでいたいとおもいます。

*1:"I Was Born to Love You" 1996