けれど、の文学

聞き取ろうと思っても聞こえないし、聞こうと思わなくても聞いてしまうこともある。

 

その昔、切支丹は自分たちの信仰箇条のことを、「けれど(credo)」と言ったそうだ。ラテン語credoの音訳で、けれど、とか、けれんど、とかいう。

 

――1596年、秀吉の禁教令。けれど。1612年、幕府の禁教令。けれど。1622年、玄和の大殉教。けれど。1637年、島原の乱。けれど。おらしよ。あやまりのおらしよ*1。これわがあやまりなり。これわがあやまりなり。わがふかきあやまりなり……。

 

けれどゝは、真に信じ奉る。万事叶ひ、天地を作玉ふでうす、ぱあてれを。又其御ひとり子我等が御主ぜすきりしとを。*2

 

 現代人のぼくは、どうしてもそこに、文語調の信仰箇条よりも、はるかにずっとラテン語一人称と「けれど」という逆接の響きを聞いてしまう。

 

 

このまえ、宮沢賢治の「永訣の朝」を高校教科書で取り上げていて、塾の子に解説しようと思った。「あめゆじゆとてちてけんじや」のところ、教科書でも賢治の自注でも「みぞれをとってきてください」としているのを、ぼくは自然に「けんじや=賢治や、という呼びかけ」と思ってしまった。が、これは調べたらなんだか違うようでもあり、でもよくわからん。方言でそういうとしても、賢治がわざわざそう書いて二重の意味を持たせたという解釈もありそうで、考えこんじゃったのだ。

それにしても、

 

(Ora Orade Shitori egumo)

 

という箇所を読んでも、つくづく、思うのだ。日本の文字体系は変で、つまりひらがなは、世俗化前のトルコ人が苦労してトルコ語アラビア語に直す、それから世俗化して、すべてローマ字で書く、ああいうのを「表記」というのだとしたら、そういう経路はたどっていない。そのような「表記」の系譜、断絶が見えないように作ってある。

 

明治期などにもしかしたらローマ字の言文一致運動が成功していたかもしれないけど、結局は、古今和歌集・仮名序に言う、自然なこころをうたったものがすなわち和歌でありひらがなである、そして心の中に三十一文字があり、草も木も京の貴族のことばで歌う、そういったきわめて幻想的な世界観が、あたかも連続的に現代の日本語に重ね合わさっているように、見える。

 

この、ひらがなという京を中心とした文化と、奥州の文化との距離を考えるとすれば、それは土地も産物も歴史も違う。だから、自然なこころをうたったとしてもひらがなではない。あるいはひらがなで不自然なうたを歌う。そういう場合がありうる。すると岩手あたりでひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字が混然となるという事態にはもう少し解釈が付けられるんじゃないかと思う。歌枕とか言うけど、ちゃんと見に行ったの西行あたりからだろ、的な。だいたい、宮沢賢治柳田国男の『遠野物語』ほぼ同じ時代だもんね。

 

この書を外国に在る人々に呈す

 

遠野物語」の序文はこうはじまる。続けて、

 

この話はすべて遠野とおのの人佐々木鏡石君より聞きたり。さく明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおりたずたりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手はなしじょうずにはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減かげんせず感じたるままを書きたり。思うに遠野ごうにはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広ちんしょうごこうのみ。

 

柳田は自らこの本を陳勝呉広の乱になぞらえている。文学における農民の叛乱とでもいうのか。秦帝国の圧政と崩壊に柳田が何を重ねていたか。こうしてみると、ちょっと異常な本、思いをつめた本として読めるんじゃないかと思う。

 

この中では、たとえば「オシラサマ」と、カタカナで音をあらわしているのが目を引く。これはまさしく「表記」の意識化であろう。とすれば、序の「外国」とは、日本のことでもあったんじゃないのだろうか。ぼくは、そういう読み方をしたい。

 

東北ってのは、古く征夷大将軍恵美押勝、徳一、奥州藤原氏の時代は言うまでもなく、戊辰戦争のときには「東武朝廷」なんて話もあったし、ずうっと中央との緊張はあるでしょう。あるいはまた蘭学高野長英後藤新平などがこの辺り出身で。後藤さんの台湾教育はまさに国語の問題で。

 

そんなことを考えつつ、詩に戻る。とりあえず、賢治の仏教のことは今は措こう。ようするに、ひらがなでは発見されていないものがある。たとえばそれが妹のことばであった。翻訳不能であり、音声を拾ってローマ字で書きつけるしかなかった。ちょうどゲルマン人のことばのように。

 

 

Ora pro nobis.

われらのために祈りたまえ。

 

 

あるいは件の詩句は、このラテン語の祈祷文みたいな風に読まれるのかもしれない。けど、なぜラテン語っぽいのか、と考えると、これは東北のキリスト教文化、つまり伊達氏の少年使節や切支丹あたりに思い当たる。彼らの「けれど」とは何だったろうか。どのような時に、どのような口調で、洩らされたのか。彼らもまた、翻訳不能なものを持っているかもしれない。その祈祷文は口伝であっただろうか。ちょっと調べたら、「架場(ハシバ)」なんて地名があるんだものね。ものすごい国際的だ。

 

国際的、と言えば、柳田も賢治も、ずいぶんエスペラントに熱中したことで知られている。遠野物語を書かせた佐々木喜善その人が、賢治とも親交があって、エスペラント語が達者だった、という。佐々木と賢治の没年が一緒なのは、何かの符号だろうか。

 

そのエスペラント語*3の第一回大会で採択されたブーローニュ宣言に言う、

 

Esperantism is the endeavour to spread throughout the entire world the use of this neutral, human language which, "not intruding upon the personal life of peoples and in no way aiming to replace existing national languages",...

エスペラント主義は、人々の個人的な生活に干渉せず、そして現存する国語に置き換わるといういかなる目論見もなしに(...)、全世界にこの中立的な人間の言語の使用を広げていこうという努力である。

 

という文章に、ぼくは打たれた。エスペラント語から訳せなかったのが、かえすがえす残念なのだが、ともかくここでつらつら書いてきたことは、結局、上記引用拙訳にある、「人々の個人的な生活」に言語が干渉する、という事態そのことである。これを前提にしたうえで、もし、内的生活に干渉しない言語によった共同理解が成り立てば。そのときには、特定個人の生活に干渉しない連帯というものが、つまり国語というものの超越が、可能になるかもしれない。

 

ひいですとゑすぺらさといふ頼敷、かりだあでといふ大切

*4

 

nunc autem manet fides spes caritas, tria haec maior autem his est caritas.

*5

 

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。*6

 

どちりいなきりしたんと、賢治と佐々木と柳田という補助線を引いて、信仰を「けれど」と、希望を「エスペラント」と、そして愛を「大切」という風に、これをおぎなって読んでみる。あるいは、ことばを超えたことばというものについて。

*1:「おらしよの翻訳」、尾原悟編、『きりしたんのおらしよ』所収、62頁。

*2:「どちりいなきりしたん」前掲書、24頁。

*3:エスペラント考案者のザメンホフさんは、哲学者カントのケーニヒスベルクにほど近いビャウィストクというところに生まれた。「ズブロッカ」で有名なここはヨーロッパでかなり珍しく原生林が残っているところだ。ヨーロッパバイソンという野牛が生息している森、といえば、中世や古代どころではなく、アルタミラ洞窟あたりまで遡るかもしれない。そういう鬱蒼たるところにしかし、様々な民族が入り、歴史がある。ポーランドはヨーロッパ初の成文国民憲法を出したりと、まだまだ勉強したいことが多い国だ。

*4:『ぎやどぺかどる』、日本古典全集、下巻、120頁。

*5:コリントの信徒への手紙1、13章13節

*6:新共同訳