つくづく梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞III)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで、梶井基次郎さんの檸檬を読みます。

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ますます梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞II)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで梶井基次郎さんの檸檬を読んでいます。

 

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前略梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞I)

 

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よっすどーも。浜田です。一応文学部卒の端くれですが、お手柔らかに。今回は、梶井基次郎さんの『檸檬』(1925)を読んでみようと思います。

 

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山と海(合宿する哲学)

よっすどーも。浜田です。今ね、哲学研究科の人でね、合宿どこ行こうかって考えてるんですよ。山と海とどちらがいいですか、みたいな。

 

夏になると急激に思うんすよね。山と海しかない!みたいな。人生山と谷しかない!みたいな。山の幸、海の幸!みたいな。海千山千!みたいな。あのね、平野がかわいそうだと思いませんかね。関取でナントカ山、ナントカ海はいるが、「関東平野」みたいな人、どれくらいいるんだか。あの、近代の歴史はほとんど平野の発展じゃないのかと。海を埋め立て山を削ってきただろうと。そこを忘れるな。

 

それともあれか。山や海は、その近代というヤツにたいする一種の疲れの投影なのか。自然が多いところに行きたい? でも日本て未開の自然て少ないんじゃないかなあ。山の上の旅館で白米食ってどうよ? それって既にだいぶ近代化だろ。絵葉書とか出してんじゃねえよ。前島密さんに感謝しなさいよ。なに、「自然が多いところ」ってのはそういうナマの自然じゃないと。なんかこう、木とか生えてんのがいいんだと。なるほどなるほど。何言ってんだ。

 

こうして見ると、日本人は、自然に対する思いってかなり特異だとして、公民や倫理で学んでおくべきなんちゃうかと思うんですね。資源が少ない国であると一方で教えられながら、自然が豊かだと教えられたらどうなるか。

 

特に植生の豊かさからくる、植物の比喩のなんというか雑さはね、うなぎ問題とかの背景にあるんじゃないかと、割と真面目に考えてるんですよ。

それは例えば、草木悉く仏、とか、城春にして草木深し、という発想ね。この背景には、(特に)国家権力の保護なしにも逞しく生きていく植物的生命への信頼がある。しかしこの生命の直感は、類や種で分けてものを見ない。

 

生物学、例えばアリストテレスさんなんかが既に、類や種で分けないとダメだって論理学まで動員してるのに、これでは、生息環境や生息数などに目がいかないのは当然なのかもしれない。

 

でもさ、この福祉国家日本でとは言わないけど、おまえら自分自身を類種概念を超越したテンネンの草や木だと思ってんの?というツッコミは必要だと思いませんか。少なくとも、この自分が生きていること以上に生命についての認識が及ばない事態は、やっぱり考え直さないといけないのかもしれん。

 

生の平板化、といえばですね。西洋哲学の認識論や存在論は多く階層型秩序を採用してます。なんというか山岳的なところがある。ピラミッドの上にお目目が浮いてて下を睨んでる、アレですな。もっとも原始的なやつだと、山上は基本的に神的な領域で、山の下の方に行くと町とか、人々がいて、もっと下に動物、植物、最下層は不定形の物質みたいな。神社でコマイヌが出迎え、しめ縄が巻かれ、ご神体は金属の鏡だったりする国とは大違いです。

 

この発想だと「数学」は上の方にあり、下の方に不定形の物質があるから、「数理物理学」は生まれようがないわけで、近代だとやっぱそこは違うんだと思いますね。階層型秩序を取るにしても、物質は曖昧なものである、という発想がなくなっていく。コギトから数学の話になったら、すぐ物質科学になるかのような発想です。古代ギリシアの原子論とか翻訳してみたら、物質は単純性だったわけです。魂が実体で、分割不能だと言っていた人はどこかいきました。また、神の領域もわかんなくなっていく。一番単純なのが数学で、次は物理、だんだん複雑化して動物とか。人間は「数学的合理性」以上のものではないか、なんて発想はこの世界観に影響されてんのではないですかね。

 

でね、思うのは、階層型秩序を取るにしても、色々あるが、しかし、どうしても上下をつけたがる。それは、どうなのか。山登ってるだけじゃダメなんじゃないか。山でいいのか。海もいいんじゃないか。要するにここまでの議論はぼくが山より海に行きたいだけの話だったことが唐突に判明するんですけど、山登りをモデルにした、上り道と下り道という考え方が、やっぱり問題ではないかと。逆を考える。海行きたい。伊豆に逗留して梶井基次郎ごっこしたい。

 

やっぱ海ですよ海。海はね、限界を考えるにもってこいじゃないかと思うんです。普通に考えると、限界ってのは、典型的には、壁みたいな限界ですね。超えられない。この高い壁を越えるというような意味での努力や超越です。これに対して、海にズンズン入っていく場合を考える。そこにはなんの高い壁もない。溺れるまで進めてしまうわけです。そこから先が地獄という明確な標識がない。板一枚下は地獄、とはよく言ったものです。

 

こんなことを考えながら、読むと、カントは不思議なことを言っている。この海に島が浮かんでいて、それが「真理の国」であるというんですね。その国は絶対確実、だけどその先に人は行きたくなってしまうんだ、と。カントにとっては、山や壁や、宙に浮いたお目目が問題ではなかったのですね。カントは海に行きたいと言ってる。ゲーテファウストが、海の干拓でその生を終わらせたのと、カントが悟性の限界の先を海に例えたのと、微妙に重なっている感じもします。まあ、その後ドイツの海軍政策がどうだったていう話もあるんですけど。

 

なんか、書いてるうちに山でもいい気がしてきました。ああ、日がな一日森や山ん中で憩いたいものだなあ。山から切り出してきたセメントで固めた巨大な「森林」を歩き回り、森林性のカラスやなんかの「都会の生き物」に疲れちゃった自分の心を重ねながらね、そんなことを思うんすよ。罪深いですね。

苦しむ技術(「つらいのはあなただけじゃない」という言葉について)

よっすどーも。浜田です。今回は「つらいのはあなただけじゃない」っていう言葉について考えます。ぼくはこの言葉が苦手です。悪気ないんだと思いますけど(ていうより大体はアドバイスしてやってるんだって顔もされるんですけど)、こういうことを言われるとずいぶん傷つくんですよね。言わなくても思ってるだろうなってわかった瞬間に心の中で何か崩れる音がします。

 

例えその他の点で尊敬できる人であっても、何かの折にこういう一言があると、かあ・・っとなって、ああこの人駄目だなんもわかってないって思うんですね。 思いませんか。そうですか。

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ソーシャルワーク専門職とは(受動性について)

家族が事故で入院して数月。いまは転院してリハビリを行っている。幸いにして体の障害は残らなかったが、見た目にはわからないような種々の障害を見つける。いろいろ調べたりして、ふと思う。

ソーシャルワーカーの存在感ねえな…。

こういう暗中模索状態においての専門職の在り方とはどういうものだろう。

(この物語はフィクションです)

 

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けれど、の文学

聞き取ろうと思っても聞こえないし、聞こうと思わなくても聞いてしまうこともある。

 

その昔、切支丹は自分たちの信仰箇条のことを、「けれど(credo)」と言ったそうだ。ラテン語credoの音訳で、けれど、とか、けれんど、とかいう。

 

――1596年、秀吉の禁教令。けれど。1612年、幕府の禁教令。けれど。1622年、玄和の大殉教。けれど。1637年、島原の乱。けれど。おらしよ。あやまりのおらしよ*1。これわがあやまりなり。これわがあやまりなり。わがふかきあやまりなり……。

 

けれどゝは、真に信じ奉る。万事叶ひ、天地を作玉ふでうす、ぱあてれを。又其御ひとり子我等が御主ぜすきりしとを。*2

 

*1:「おらしよの翻訳」、尾原悟編、『きりしたんのおらしよ』所収、62頁。

*2:「どちりいなきりしたん」前掲書、24頁。

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