図形は知覚か概念か

“三角形の内角の和は180度であるという命題において「三角形」は直角三角形であるかどうか考えてみたまえ。この三角は、あらゆる三角の「可能性」を含んでいる。そもそも「直角でも鈍角でも鋭角でもある」三角形も、「いずれでもない」三角形も矛盾である。三角形一般の概念は「考えられる」思考可能性でしかなく、決して今ここで知覚可能なものではない。“

 

“でも、三角形はやはり抽象的なイデアではなく、その時や場所において知覚されているのではないか。君は三角形は「見える」ものではなくて概念だと言ったから、「丸い三角」を矛盾というだろうね。しかし、三角形を想像してから、あとでその三角形の角を切り落とした姿を想像したまえ。明らかに今度は「丸い三角」が想像できているはずだ。これは概念の操作の中に過去や現在を持った主観的な「として見る」行為――或いは心理的作用――が含まれていることを意味する。つまり、時間ないし知覚的な図式が三角形を構成するのだ”

 

“いやいや、そんな「丸い三角」は「本当の三角」ではない。本当の三角は円ではないからね。たしかに知覚の像が三角形の概念に、かなりしばしば結び付くことは認めよう。でも、結局その最初の三角の知覚、これは直角かどうかについて答えてくれていないよ。知覚の像を相互に識別可能にしているのは、やはり三角の概念であり、そしてそれは定義上、円とは区別されている三角の一般概念さ。丸い三角という知覚上の図形の像は、真の円、真の三角の概念ではない。”

 

"ちょっと待ってくれ、それじゃあ君は、「初めて三角を知った人」ですら、予め三角形の概念を持っていた、というのかい。しかし敢えて言うが、君にも「初めて三角形を知った時」があったはずだ。知識の獲得には必ず時間と場所が不可欠だ。そしてまた、人類は、農業の概念を形作る前から、後で考えたら農業として理解されるような行為をしていたのではないだろうか。そもそも誰も三角形を「識別」する実際上の理由なしに三角形の概念を持つとは考えられない。"

 

"実際上の理由や発達の過程がどうであれ、「予め概念的に把握されざる三角形」という君の言葉の意味がわからないことは動かないよ。実のところを言えば、知覚や概念以前の行為に基づいて概念なしに三角形を語る「権利」はあるのか、ぼくは常々疑問なんだ。"

 

 

 

 

f:id:beinginadequate:20170911145956p:plain

合宿に行ってくるなど

よっすどーも。浜田です。昨日まで哲学の連中で合宿に行ってました。皆さんお疲れ様。

 

ぼくはといえばまずそこの旅館のご主人が印象的でした。家族経営のようなそんなに大きくないところでしたが、飯はおいしく量多く心こもってる感じだなあと思っていたところ、旅館のご主人が朝早くから一生懸命掃除していたんです。なんかこう、太いふくらはぎでごま塩頭、ちょっと田舎のお寺の住職さんみたいな感じというのでしょうか。で、チェックアウトの時にそのご主人、「ありがとうございました」どころではない。いっこうに、深々と下げた頭が上がらんのです。もうね、ずうっとお辞儀状態。

 

流石に、ぼくらみたいなのにそこまでされるとは思わなかった。で恐縮しまして、こちらの旅館は長いんですか、と聞いたりしました。3年でダメになると言われましたが、30年、やれました、あと何年やれるかわからないけど、と。こんなに古い宿で、行き届かない面も多々ありながら、ありがとうございました、よく見つけていただいた、ありがとうございます、と。

 

なんか大病でもされたのかなというくらいのお人柄でした。いやあまり見ない人だよ。

 

あとやはり深夜には様々な話がしやすいんですが、風の噂で古い友人の話になりました。彼も研究者として身を立てることにどうも違和感を持ちはじめたそうなんですよね。ぼくの言い方だとどうやら「血迷っている」。いろいろなことをやりたくなり、そしてなにもやりたくない。

 

あせりは禁物で、一週間くらい寝てれば軽ければ治るんでしょうけど、それを自他に許せない。全てが行き詰まりを見せた時には、あんまり血迷うことはないんだけど、ちょっと周囲に認められた時にはじめて、「あれ俺なにやってるんだっけ」ってなるパターンなのかなと思いました。人ごとではないなあと顔を見合わせたわれわれに笑顔はなかったのでありました。

 

これは、今回の合宿で皆が思い思いに発表したんですけど、そこで偶然にも一貫したテーマとなっていたんじゃないかと思ったことでもあります。皆の発表にぼくなりの線を引くと「情」というものになります。

 

やっぱりね、ニーチェもそうだけど、自己認識は自分の価値評価に気づくことから始まり、そしてその価値の系列(経歴というのではなく)の一番先のものが「原理」になるべきなんですよ。一番こころひかれるもの、憧れるもの、したがってそれによって自己を低く見、憂鬱にし、悲しませるものこそが、自分のこだわりとなり、自分を燃やすその原点となるわけですね。

 

哲学だって「自分にとって第一のもの」とは言いづらい。天下国家を論じながら自分の生活すらままならないでしょ。でもなんでやるかって言ったら、「本質として第一のもの」に向かって人間は努力するんじゃなかろうか、ということですね。

 

これを教えてくれるいろいろな「情」をひっくるめて「愛」ということができる。ルソー、カント、そしてニーチェが強調する「愛」は教えられないという教説は、科学的認識観に対していつも対立するだけでなく、価値評価の自由のためにも極めて重要です。特に現代日本のように愛国と恋愛を強く評価する文化では愛国をたとえば教えようとする。宮台さんだったか鶴見俊輔だったかな、書いてましたが、その教育制度の中の一番を取るという、「自分にとっての第一」がそこには入り込む。これは愛の堕落で、愛はむしろ自分を低めることを教えるというのが基本です。何に対して低めるかを誰かが説明することはできないのです。

 

この感情の「非合理性」と、理性的であろうとすることの中を生きるということは、単に「理性的動物」であるということではもう済まなくなってきてい、一方、哲学も「知への愛だ」と言ってきた経緯がある以上、責任がなくはないのだから、この感情の問題は本当に大事。

 

だけど更に、感情が上手くいかない場合があるし、「本質として第一のもの」に気付けるかはわからない。ぼくなんかは、「今のように哲学やってるよりあの旅館のご主人の方が徳が高い」と思ってしまいましたよ。

 

周りからしたら「努力すること自体が問題を作ってる」こともあるし、諦めた方が前に進めることもある。その辺りは新しい感情論の契機になってるかもしれないなあと思いました。

 

ではでは。

 

草々梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞V)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで、梶井基次郎さんの檸檬を読みます。今回でラストです。

f:id:beinginadequate:20170814105639p:plain 

続きを読む

しげしげ梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞IV)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで、梶井基次郎さんの檸檬を読みます。f:id:beinginadequate:20170808232450p:plainだいばくはつだ。 

続きを読む

つくづく梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞III)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで、梶井基次郎さんの檸檬を読みます。

f:id:beinginadequate:20170808232134p:plain

 

続きを読む

ますます梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞II)

よっすどーも。浜田です。前回の続きで梶井基次郎さんの檸檬を読んでいます。

 

f:id:beinginadequate:20170808205557p:plain

続きを読む

前略梶井基次郎ごっこ(檸檬鑑賞I)

 

f:id:beinginadequate:20170802111805p:plain

 

よっすどーも。浜田です。一応文学部卒の端くれですが、お手柔らかに。今回は、梶井基次郎さんの『檸檬』(1925)を読んでみようと思います。

 

続きを読む